近藤さんからの『Kの世界』への「お便り」

(第13号へ)

 
前略、『Kの世界bP3』ありがとうございました。
 労作について、すべてはコメントできません。
〔1〕基調提案――「荒れ」の質の吟味。「荒れ」とは何か、何をもって「荒れ」というのか。その根本にあるものを見すえねばならない思いをもっています。「荒れ」の対概念は何?「荒れていない」ということなのか?対概念を探すこと。「人間として生きることの味」はどこに位置づくのか。こんなことも引きとって考えないかんなあと思っております。
〔2〕今村実践――とても楽しみです。こうした自己の多感であった頃に何が形成され、何を失ってきたのか。そのことと、今、現在教師として生きていることとの間にあるもの、そのものをお互い大切に出しあい吟味しあうことがとても重要ですね。氏の高校時代の壮絶な記録にみる「荒れ?」は「荒れ」なのか?このあたりも〔1〕を深める視点となりそうです。
京生研のみなさんによろしく。
                              近藤郁夫

(第14号へ)

 
前略。『Kの世界』bP4、ますます面白くなってきましたね。毎号、毎号、読みごたえがあるこの冊子。実践の労、執筆の労、編集の労を思うと頭が下がります。
 今村連載第2回目。僕も思わず目頭が熱くなりました。職員室で「ゆき」と大泣きに泣く。プールで「ちか」と大いなる和解。今村氏の姿を思いうかべつつ、涙を禁じえませんでした。機械音ばかりの世界にいる子どもたちは肉声を求めているんですね。人間的な姿とは何かを、試したり、ひねくれたり、荒れたりしながら切に求めているのですね。人間的な姿の一端を確実にかいまみることができれば、人間は荒れたりしません。こうした劇的な場面が長い実践生活の中には必ずあるはずです。そんな交流も大切にしたい。
 森岡実践や細田実践にも、「なりふり構わない」姿勢があります。そんな要素が今日の実践には必要とされてきているのでしょうか。森本氏のK君分析にせよ、谷田コメント、佐々木コメント、糸井コメントにも説得力がありました。特に佐々木コメントの「学校づくりを見通した実践分析」の提起は、京生研の新たな課題があるかもしれません。
 嘉門氏の「私のうらわざ」。短文でありながら相当深い提起を含んでいる。中年期的発達課題(嘉門さん、いいでしょ、こう書いても)を見事に提起してくれている。「八分の力で教師をすると、子どもが可愛くなりました」「自分の趣味をもち出すと、私も遊んでいるのだからと、ゆとりができました」――僕もこんな境地で大学教育実践をしています。
                            近藤郁夫(愛知県立大学)