京生研基調部からのお誘い

予告編
 まもなく、大会基調報告が掲載された生活指導誌がお手元に届くのでしょう。
 基調報告のタイトル
   「統制と排除の学校に抗い、子どもの幸せ追求の学校づくりを切りひらく」

       ――京都における集団づくりの構想と、「K」への指導によるヘゲモニーの確立――
 基調報告を書き始めるにあたり、最初にタイトルを確定しました。その後、京都として書きたいこと全て書き込んだ京都原案はA430ページにも及ぶものになりました。この京都原案をもとに、京都の常任委員会、東京(全生研)常任委員会の基調担当との会議、近畿地区学校での論議を経て、いったん完成しました。その後、3月の全国
(全生研)常任委員会で論議した後、紀要版への縮小課題に取りかかり、縮小版を5月の全国委員会で検討して頂き、完成したものです。
 論議を重ねるごとに、基調報告の中心メッセージは、「『K』と共に生きる覚悟をしませんか!」という呼びかけなんだと思っています。
 生活指導誌の届く頃から、基調部よりメッセージの連載を始めます。(まずは予告編) 

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第1回
 「軋轢(あつれき)はケアに内在する」
 この言葉に出会ったときに、引用文献は『フェミニズムの政治学』(岡野八代)にしようと直感的に感じました。
 京都原案を作成した後、紀要版に縮小する作業を1ヵ月中断し、『フェミニズムの政治学』を読みました。
 紀要版を作成し終わってしばらく、基調から頭を離して、今改めて読み直しています。
 現役の声「退職教員にしか出来ないですね・・・」
 いやいや、私はもっぱら電車の中や時間待ちの喫茶店で読んでます。非行問題を抱えた少年の支援に走り回っている合間にです。
※就労先を開拓し、ようやく就労体験にこぎつけ、ここで認めてもらえば就労が決まるというところで、音信不通状態の家出!徒労感いっぱいで事業所へ謝罪に向かう電車の中。
※朝5時に起きて大学の授業に行く。帰りに少年と待ち合わせ、30分の待ち時間の喫茶店の中。
※夏休みに1日2時間×連続6日をワンセットに、3セットの取り戻し学習支援を少年と保護者と話しあって決定。その会場を貸していただくNOPの代表に趣旨説明とお願いに向かうバスの中。
 こんな時間に読みたくなる本です。
 『軋轢はケアに内在する・軋轢のないケアは本物ではない』
 ケアを指導と置き換えてもいいのでしょう、いや元々指導にケアが含まれているのでしょう。
 38年間の教師生活の中で、子どもとの関係で最も軋轢を大きく抱えたのは、なんといっても校内暴力期です。当時を生きた中学校教師は皆同じだと思います。校内暴力期に抱えきれないほどの軋轢を抱えながら、京生研に集まった仲間が京生研の今に繋がり、軋轢を越えて教師であることの喜びを求め続けた京生研の仲間の実践が基調報告に繋がっています。
 これより、現地基調報告部より発信を始めていきます。次回は、校内暴力期をめぐって発信します。
 1970年代後半から80年代前半を教師として生きた仲間へ!!
 校内暴力期を経験した教師は、若い人に当時を語るべきだと思っています。
 それが、どれほど心の傷になっていようと、思い出したくないことであっても、若い人に伝えなくてはいけないと思います。
 当時、壊れそうな自分を必死に支えようと、「逃げもした」、「隠れることもあった」、「卑怯な自分もいた」、「おびえた自分」、「無力な自分」を、今、語るべきだと思うのです。当時の教師の抱えた辛さを忘却させてはならない気がします。
 まもなく、似た状況が押し寄せる気がします。
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第2回
 「暴力とは定義上、主体の意思貫徹のために暴力の対象を客体化することである。他者の存在に呼びかけられることから始まるケアの倫理は、まず何よりも、ケアを担うものにもケアを受け取るものにも、他者を客体化してしまうこと、すなわち暴力的な主体であることを禁じる倫理であるはずだ。」
 1974年に中学校現場に入った私は、70年代後半から80年代前半の校内暴力期を、20代の青年教師として向き合うことになる。勤務していた学校は生徒数1500を越えるマンモス校、学年14クラスの学校である。全生研に学び、集団づくりを進める若い教師たちが実践の中心を担っていた学校である。非行問題は周辺校の荒れの余波を受けるかたちで広がり、シンナーとバイクにはしる生徒が6〜7人の軍団となり、校内でも暴力事件を引き起こしていた。
 何とか学校全体に校内暴力が広がるのを自治の力を育てながらくい止めてはいたものの、突出した生徒の振る舞いは目に余る状況であった。何度も彼らとぶつかりながら、「全生研っていっても、荒れるときは荒れるやないか!」そんな外野の声も聞こえる中、「排除は教育ではない、どんなことがあっても排除はしない」。職場の実践的与党として、全生研に集うものとしての最後の一線を守り続けた時期である。
 違反服・特攻服で登校する彼らを、指導室に入れ指導する。絶対「来るな・帰れ」とは言わない指導。しかし、彼らは帰っていく。そして、しばらくして校門の前の坂道を、けたたましいバイクの音が鳴り響く。門に集まった教師の前を、3ケツしたバイクが爆走する。
 放課後、彼らの居場所を探して指導しに行くが、また指導の種を見てしまう。そんな場に彼ら以外の生徒もいると、崩れが広がっていくのかと、止めどもなく不安が広がる。指導しても手応えのない状況と積み重なる問題行動に、あきらめもよぎりながら指導の言葉に迫力もなくなっていくのがわかる。そんな時に限って、彼らのシンナー吸引現場にぶち当たる。スイッチが入ったように言葉に迫力が出るのだ。
 「何してるねん!」
 「こんなコトして、バイク乗ってたら何が起こるかわからんやろ!」
 迫力に負けた彼らは、すこし反省の態度を見せる。親に引き渡すが、引き取りに来ない親もいる。
 「何言ってるんですか、あんたが産んだ子やないか!」
 電話のやり取りも荒々しくなる。翌日、シンナーからさめた彼らに「死んでしまうぞ!」というと、「死んでもいい!」と、能面のような表情で返す彼に、立ちつくした。 
 学校の帰り道、彼らの集まりそうな場所をパトロールするのが日課だったが、知らず知らずに「いなければいいな」と思うようになり、いそうな場所は避け始めたり、逃げかけている自分を感じ始める。
 しかし、決して排除はしない私たちの姿勢に、彼らも、対教師暴力は起こさなかった。ぎりぎりの場面は何度もあったが、行為にまでは至らなかった。それでも、出口の見えない日々に疲れていった。〔続く〕
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第3回
 指導するものと指導されるもの、すなわち指導と被指導の関係が厳然とあった状況から、当然とされた指導するものの制度的権威が一切通用しない状況が押し寄せたのである。生徒の暴力性は自分たちの内側にその標的となるものをつくり出しながら、彼らの世界を否定する外からの介入に、暴力で介入を排除するなかで、校内暴力は広がり始めた。
 彼らを指導するということは、彼らのうちにある、いつ暴発するかわからない暴力性を意識しながら向き合うということである。そんな教師の胸の中はどんなであったろう?
 その時の自分を思い出すのも辛いと感じる仲間も多かっただろう。怯えの消えない自分・向き合わないことを正当化してしまった自分・無意識に彼らを視界に入れないよう振る舞ってしまう自分、そしてそんな自分を多くの生徒が見ていることへのあせり。
 一日が終わり、バイクに乗って家に向かう間、その日に現れた自分と向き合いながら、それぞれの場面の私を、明日に向かって整理し、翌日の自分をシミレーションし終わるまで家に帰れなかったことを覚えている。20分で着くはずの家に、1時間かかったこともある。
 時には、彼らを暴力的に打ちのめしてしまいたい衝動を、肉体的ダメージを与えないで精神的ダメージを与えるための手段をイメージトレーニングすることで、ぎりぎり押さえたりもした。そんな時、「排除はしない」の合言葉にどれだけ我に返ることが多かったか・・・・。
 一度だけ生徒の暴力を覚悟したときがある。かすかに残る怯えを感じながら、なぜかここは引けないと思ってしまった場面がある。
 放課後に職員室前の廊下を歩いていた。廊下の窓の外は学校のブロック塀になっている。そのブロック塀の上を彼らの一人が歩いていた。私はなんの覚悟もなく、大きな声で「こら!降りろ!」と怒鳴った。彼は、無視をしながら綱渡りをしているかのように歩き続けた。
 私はいっそう大きな声で怒鳴りまくった。彼は止まり、カバンを投げ捨てて、「うるさいんじゃ!」と私に向かって吐きつけた。
 「ちょっと来い!」私は引けなかった。
 彼は「お前が来い!」と言い返してきた。
 頭は働かなくなって、走り出していた。
 校門を出たら、彼は塀を降りて歩道を歩いて角を曲がりかけていた。いつもとちがう私の様子に、同僚の女性教師がなだめようとついてきた。彼が曲がった角に来たとき、30mほど先を歩く彼に「またんかい!」と叫んだ。
 振り返った彼は足早に私に向かって近づいてくる。その勢いはだんだんと激しくなっている。「もういいわ」と感じながらいたような気がする。〔続く〕
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第4回
 身長は180cmを越えて、太り気味ではあるが大きな体をした彼が私の目前に迫ってきた。明らかに形相がいつもと違っていた。私に向かって明らかに拳をつくって殴りかかってきた。これまで何度も繰り返してきたイメージトレーニングでは、相手が手を出す寸前に、よけるような素振りでひじうちをこめかみに入れるはずである。でも何も出来ずに、しかも一瞬、身をソラしてしまった。その瞬間、彼のこぶしは私の胸をなぜるように猫パンチになって、何か叫んでいた。
 何が起こったのかわからない私を、心配して付き添った女性教師が「藤木さん!この子はもうわかってるから!」と私の腕をつかんで引き離してくれた。興奮の冷めやらないまま、学校へ戻る途中、複雑な思いで整理もつかなかった。
 彼の担任教師(女性)が、「あの子、藤木さんにまでそんなことして、・・・・藤木さんのことを大好きやったのに!」と言った。反応する気になれなかった。  
 この経験は、いろんな講演や講座で当時を語る機会があったが、話したことはない。なぜなんだろう、自分の中で封印してしまってきた。あのとき、彼が猫パンチではなく本気で殴りかかってきていたら、応戦したかも知れないが、打ちのめされてるかも知れない。もしそうなっていたら、その後の私の実践は今のようにあっただろうか?あったかも知れないが、出来なかったかも知れない。
 いずれにしろ、荒れに向き合う上で、相当な軋轢を抱え込んだに違いない。しかも、覚悟もなく叫んだことに端を発した出来事で、あそこまで追い込んでしまう必要があったのかと後では思う場面の指導でである。猫パンチをしながら、彼は泣いていた、と後で聞かされた。そんな彼の姿さえ、目に映っていなかったのだ。
 この覚悟もなく、追い込みすぎる過ちは、その後も幾度か繰り返しながら、いつしか「向き合う覚悟」と、「追い込みすぎない」が、わたしの「K」と向き合う上でのキーワードとなっていった。
 「向き合う覚悟」→「向き合えるだけの援助をしてから」→「覚悟して向き合う時期はかならす後で来る」となり、「追い込みすぎない」→「耐えうる限界を想定して」→「無理なときは予告編に切り替える」と実践感覚が付け加わっていった。
 『フェミニズムの政治学』より。
 「またケア実践から見えてくるものは、子は自分とは異なる存在であることである。この個別性をときに痛みを伴いながら尊重することなく、良いケアはあり得ない。『軋轢は、ケアに内在している』のだ。ケア実践においては、時に自らの存在を脅かすような他者に対してなお、パターナリスティックに価値をおしつけるのでもなく、かといって相手の言いなりにもならず、注意と関心と労力を注ぎつつ、相手の存在が現れてくるのを歓待しようとすること、そうしたことを命じるケアの倫理の中に、私たちは平和論のカギをみいだせるのではないだろうか。」 〔続く〕
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第5回
 「暴力とは定義上、主体の意思貫徹のために暴力の対象を客体化することである。他者の存在に呼びかけられることから始まるケアの倫理は、まず何よりも、ケアを担うものにもケアを受け取るものにも、他者を客体化してしまうこと、すなわち暴力的な主体であることを禁じる倫理であるはずだ。」 (岡野八代『フェミニズムの政治学』)
  校内暴力期には、多くの中学校教師が直接、間接に生徒の暴力の脅威にさらされてきたはずである。それらの仲間が、子どもの暴力をどう受け止め、どう対処してきたかは、重要な問題だと思います。それは、現場でどう対処したかだけではなく、その後に、生徒の暴力性に対峙した(立ち向かったとか、逃げたとかの問題ではなく)ことが、教師の内面に何をもたらし、どのような教師生活を送ったのか、内面でどう対峙してきたかと言うことです。その時の思いを、しっかり話したこともないし、聞いたこともないように思います。
 まもなく校内暴力期(日本の学校がそれ以後、今に至る変化を始めた時期)を生きた教師は、現場にいなくなります。何かを伝える必要があると常々思うことがありました。
 当時、生徒が教師に暴力をふるうなんて、許し難い行為であると思っていました。その子の暴力性の出所なんて考える必要もなく全面否定です。負けてはいけないとも思いました。弱腰の先生に、「軟弱だ!」と思ったこともあります。相手の暴力(暴力性)に向き合うとき、自分の中にも暴力性を高めてしまっていたようです。指導における暴力性というのは、直接的にしばいたり、胸を押したり、胸ぐらをつかんだり、机を蹴ったり、という、次に相手からくる直接的暴力をにおわせる行為です。
 また恫喝・大声の叱責なども理解できる範囲ですが、彼の生きる集団から彼を排除するような指導も暴力(暴力性)だったんだと思います。時には、彼らは教師の何気ない表情や言葉、ため息などの裏に、「排除の暴力」を感じて反応することもありました。
 暴力は相手を「屈服」させることに本質がある。直接的暴力・それをにおわす指導ほど、すかっと指導が終わる(錯覚だが)ものである。「排除の暴力」は、生徒の暴力性に「屈していない!」と、自分を守れる。いずれも、生徒の暴力(暴力性)に向き合う中で、自らが暴力性を身にまとってしまっているということではないかと思っている。 
 以前に報告したとおり、「排除は教育ではない」を信念にしていた私は、「排除の暴力」性はなかった。断言できる。しかし、「K」たちとの葛藤の中で、直接的暴力性を身にまとっていたのは事実である。前回報告した彼とは、「排除の暴力性」のなかった私だから、ぎりぎりのところで彼もとどまったのだと思う。このとき、私は生徒の暴力に「勝てないときがある!」そう思った。暴力を否定するような感覚ではなかった。いわんや、この経験から私の実践が変わったわけではない。ただ勝てないときがあると思っただけで、しばらくは暴力性を身にまといながら非行と向きあっていった。
 「向き合う覚悟」→「向き合えるだけの援助をしてから」→「覚悟して向き合う時期はかならす後で来る」となり、「追い込みすぎない」→「耐えうる限界を想定して」→「無理なときは予告編に切り替える」と、実践感覚が付け加わっていったのは、その後出会っていく生徒たちとの出会いの中で積み上げられがら、50代を迎える頃に、校内暴力期に身にまとった暴力性をそぎ落とすことができたからだと思う。実に校内暴力期にさしかかってから、20年かけての作業でした。
 同世代の仲間はどうしてきたんだろう、と思います。職を去った人、「学校を変えなければ!」と校長になって学校を変えると宣言しながら、ただの管理職になった人、無気力になり趣味に生きた人、今の学校状況を憂いながら、教師生活を送る人、もちろん「K」と共に生きた人、みんな、校内暴力期を語って欲しいと思います。 〔続く〕
(基調報告紀要版は縮小のため、校内暴力期の分析とその後の学校をカットしました。大会参加者のみ、当日お渡しする京都版原案(A4版38ぺージ)には、結構書き込みました。是非お読み下さい。)

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第6回
 教師になって1年目に北海道大会に参加した。初参加の印象から、2年目の大会は行かなかった。分科会での討論は訳わからないし、係活動がイヤだった。極めつけは酒の入らない歌声はなじめない!しかしその後は皆勤!
 教師2年目にクラスの女子生徒(課題のある)とうまくいかないで苦しんだ。HRのある日は軽い不登校になった。男子の問題生徒とは、激しいとっくみあいもした。それでも女子生徒はクラスが離れるとひっついてきたし、男子とは兄弟のように仲良かった。男兄弟で育った私の女子生徒へのデリカシーのなさを、女性教師に指摘され、「そんなんしるか!」と思った。その女性教師に「男子の指導は抜群やで!」とも言われた。
 3年目には改めて全生研で学ぼうと自覚的に参加した。様々な問題をクラスで話し合わせること、日直の実践、何をやっても楽しかった気がする。そして教師生活の3年が終わり、結構指導に自信も持てるようになったときに校内暴力期にさしかかったのです。全生研『集団づくり入門第二版』をバイブルに実践しながら、非行問題と向き合いました。
 『二版』の実践は、リーダーの指導から、集団の活動を組織し、集団を民主的なものに変革する実践だととらえています。リーダーの個別指導は山のようにやっていたと思います。校内暴力期の非行問題も、リーダーとよく話し合っていたと思います。
 日直の点検活動も係の取り合いも、「K」が参加できなかったら無意味だと感じ始めて、やめていったのもこの時期です。「K」の起こす問題を話し合うことと、「K」も参加した行事の取り組みの中で集団づくりを追求していました。
 当時は、リーダーたちと「K」をどうしていくかを話し合ううえで、リーダーたちに「K」について教えられるだけのものを自分が持っていなくては指導できない、この思いで「K」の非行問題に食らいつき続けていたと思います。
 このリーダーたちとの関係、集団づくりの観点がなければ、私は「K」に対して暴力性を帯びた指導に簡単に走っていたと思います。「排除は教育ではない」「集団づくりの教師だ!」この思いで「K」を追いかけ続ける中で、何度もわき起こる暴力性(教師をやめてもいいし・・・・あきらめと排除)に翻弄されながら、苦悩していたときに出会ったのが、竹内先生の言葉でした。
 「非行問題に取り組む教師は、彼らの中にあるまっとうに生きたいと願う『もう一人の自分』を信じて語りかけ続けなければならない。」
 研究者の言葉で、これほど現場の最前線にいる教師を励ます言葉を他には知らない。この言葉のおかげで、「K」を排除せず、リーダーたちと「K」を支えながら歩むことが出来ました。〔続く〕

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第7回
 校内暴力期に、荒れる生徒と向き合ったのは20代〜30代の教師たちが中心でした。能重先生や関先生は私たちからすれば、別格の存在でした。荒れる生徒と向き合った教師たちが、様々な傷を抱えながらその後の学校運営の中心になっていくことになります。
 「二度とあのような思いはしたくない」という思いは、全ての教師の思いだったと思います。
 その後、「統一した指導」「そのためには決まりの細目化」「早めに非行の芽をつみ取ろう」という思いで管理が強化されました。また非行文化に対峙する、価値ある文化として「合唱」「演劇」「民舞」「大ムカデ競争」「応援」など行事が追求されました。
 当時は「非行・暴力」と向き合うために、教師集団が一枚岩になり、毅然と対処することが求められ、管理も必要でした。行事も、ツッパリたちが確かに頑張って参加もしました。しかし、時が経つにつれ、それらの取り組みは形骸化し、本来の「非行克服」から「非行排除」の取り組みになっていった面があります。
 オーケストラをバックに全校合唱に取り組む学校で、そこにはツッパリたちが参加していなかったり、体育大会の総合得点に、取組中のベル着の点数が加算されたり、本来の姿から離れ始める状況が生まれました。これらの背景に、校内暴力期の教師が受けた傷が影響していたのではないかと思っています。
 様々な取り組みを進めるとき、様々な状況において指導方針を立てるとき、「これは、『K』にとってどうなのか」を考えることが何より重要だと考えるのか、「大多数の生徒にとってためになる」方をよしとするのかの違いが、校内暴力期以後の学校のあり方を規定していったと思います。
 私たちは、徹底的に前者であり続けた。京生研は前者であり続けようとしてきた。前者であり続けることを実践研究の中心に据えた。
 同じような思いで実践された方も多いでしょうが、しかし、圧倒的多くは後者に流れたのではないでしょうか?〔続く〕
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第8回
 校内暴力がようやく沈静化した1980年代後半には、いじめ問題・不登校問題が現場の問題として浮上しました。校内暴力期に強まった管理の強化が影響していることは間違いないと思います。
 いじめ問題・不登校問題は「普通の子(非行問題に走るタイプではない)」の問題として取り上げられました。当時の学校は、中流の子どもしか生きていけない学校になりつつあると言われるように、家庭がしっかりしていなければ、しっかり家庭でのケアがなければついてこれない学校生活になっていったように思います。家庭学習・生活習慣、さらには学校での無理な適応を強いられた子どもの中でも、家で癒される家庭のない子どもは、早々と学校を離反し学校の外で仲間を求めてさまよっていました。
 「K」が学校を離反して、学校に残った普通の子の中でいじめ・不登校が問題として浮上したのですから、何とかしなければと躍起になったのが当時の教育行政だったと思います。いじめ問題への指導の指針や指導マニュアルがおろされ、いじめの被害者には転校を認める措置までとられました。不登校には保健室登校、別室指導が認められ、夜に学校に来ても出席になったり、校外に適応教室を設置したり、施策もお金もつぎ込み、何とかしようとしました。普通の子の中で起こっていたからでしょうね。
 しかし、貧困・低学力・家庭の養育問題(虐待・ネグレクト)を抱える子どもたちは、校内暴力が沈静化したあとも存在し続けてきました。彼らへの指導指針やマニュアル、特別な措置は何もありませんでした。それどころか、彼らに関わる生徒指導の加配はなくなり、彼らのために行動した教師に出される時間外特別手当(ほんのわずかでしたが)もなくなっていきました。学校教育の対象外に置かれていたと言うことです。
 京生研は、学校教育の対象外の「K」を、学校に取り戻し、「K」への指導・「K」との共生を目指す学校づくりの展望の中に、いじめ問題も不登校問題も串刺しにして実践を構築しようとしてきたのです。〔続く〕

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第9回
 1993年京都大会後、京生研は実践研究活動の軸として基調提案の作成と基調にもとづく実践検討を、京都府下各地で4回実施し、その論議を受けて次年度の基調を作成するサイクルを確立しました。
 1994年度の第一回基調では、最も課題の大きい生徒(その後「K」と呼ぶようになる)の個人指導の成立には、共感的指導から共闘的指導、共生的指導の質的変化が求められること、その指導の質に応じた集団指導との統一を提起し、以後一貫してこの実践課題を追求してきました。
  しかし、京都の多くの仲間が、「K」との共闘的指導の質を目指しつつ、入口の共感的指導の段階で、困難さを抱えました。それは、学校が、そのような指導を、「K」とともに、共感的に関わろうとする教師の取り組みをも排除する方向に進んだこと、さらには、そんな学校によって「K」の抱える困難さがいっそう深刻なものに変化した結果であると思います。みんな悪戦苦闘し、あきらめかける自分を、サークルや京生研の学習会に結集する中で、批判と励ましを受けて、京生研の実践を追求し続けてきました。
 若い先生が、寝るまもなくクラスの生徒を追いかけ語り続ける姿、授業も、部活も精一杯取り組みながらも、全てが終わってから「K」の取り組みに向かう姿。そんな姿を見ながらも、「やっぱり実践の軸が『K』からはずれてる」と批判することもしばしば。
 生徒からの暴力に弱り切った仲間を夜の11時にファミレスに呼び、励ましながらも、「なぜ生徒に暴力をふるわせるような距離にいたのだ!学校の抑圧的な環境に、対抗暴力として暴れている場に、彼は君には来てほしくなかったんだ!だから『なんで、お前が来るねん』と言ったのだ!」と批判しきることもありました。
 共感的指導の困難さが、共闘指導の質に向かう難しさとして、立ちはだかった20年です。
*『生活指導』誌が手元に届きました。基調提案の縮小版を読まれ始めた方も多いと思います。次回をラストにして、大会で大いに論議して頂くことを願うことにします。〔続く〕
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第10回(最終回)
 「お誘い」9で前回の京都大会からの20年は「共感的指導の困難さが、共闘指導の質に向かう難しさとして立ちはだかった20年です。」と述べました。それは、京生研の若い仲間だけではなく、私や、私たち校内暴力期を青年教師として生きたベテランと言われる教師にとっても同じでした。「今の子どもは変わってしまった。彼らに共感など出来ない!」仲間からそんな言葉も聞きました。この思いは小学校の教師に多かったように思います。
 1990年代から出会い始めた「K」は、それまでの「K」とは違い、仲間を持たず、子ども社会に所属しない(排除されている)存在である。 
  ツッパリ仲間とツッパリ社会を持つ、これまでの「K」は、彼らを全面否定せず、彼らの社会と彼らの仲間を認めつつ要求する私たちが、関係をつくるのにさほどの苦労はなかった。そして、いったん彼らに信頼されると、その信頼は下級生に受け継がれることにもなる。
    ところが、1990年代から出会い始める「K」は、仲間も自前の社会も持たない、それ故に、教師にとって過去の実績(ツッパリたちによる評価)は全く意味を持たない。一からの関係づくりを求められた。しかも、彼らは、概ねこれまで出会った大人・教師を信用しないだけではなく、頭から自分を抑圧する存在と感じていた。
 『ゆきづまる中学校実践を切りひらく』(クリエイツかもがわ)に登場する、ヒロ・修治、そして隆信がそれにあたる生徒たちである。